合唱団とりま第一回演奏会を開催しました。

 

2014年3月8日土曜日に合唱団とりま第一回演奏会を開催しました。

 

当日ご来場いただいた皆様、応援してくださった皆様をはじめ、

 

演奏会開催にあたってはもちろん、今まで合唱団とりまに関わっていただきました

 

全ての皆様に心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

広報係として演奏会終了のお知らせの記事を執筆いたしましたが、

 

僭越ながら私個人の思いを書かせていただきますと、

 

演奏会の舞台を成功と言える形で収めることができた事に加え、

 

私たちの演奏を聞きにきてくださった方たちへ直接歌声を届けられたこと

 

音楽の時間を共にできましたこと

 

また、たくさんの方たちとお会いしてお話することができ、

 

たくさんの笑顔を共に出来ましたことが何よりも嬉しく、今後の励みとなりました。

 

私たちの演奏を聞いて、何かを感じていただけましたら、
何に増しても得難い喜びです。

今回お越しいただけなかった皆様も、
これからも温かい目でとりまを見守っていただけましたら幸いです。
(団員として直接参加していただく事も大歓迎です)
本当にありがとうございました。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

広報係 鈴鹿純子(ピッコロ)
チラシ第一版(作成中)

3月1日練習報告

夜分遅くにごめんなさい!1日の練習報告です。

 

1日はゲネプロでした。はやくもミニコン前最後の練習。

課題は各自あるでしょうが、今回はおらしょ3の歌詞解釈について、

ライ君の発見をメモ代わりに報告。

おらしょ3の中盤、「マエロヤナ」で始まる節。

この曲のなかで、もしくは曲集のなかで、ここがどのような役割を果たすのか。

直前の「獅子の泣き唄 仏の前でね ひとつ歌えば供養になる」から考えると、

マエロヤナの部分はレクイエムに当たる。

「仏の前で」の「仏」は亡くなった人、もしくは祖先を差し、その人たちへのレクイエムととれば

マエロヤナの部分を曲全体のなかでとらえることができ、どう歌うかも考えやすいのではないか。

といった趣旨と解釈してますが、ライ君どうだろう。過不足あれば修正願う。

それから、蛇足ながら俺の私見も書かせてください。

この曲集の背景には、「隠れキリシタンが味わった迫害の苦しみ」があると思う。

おらしょ3のマエロヤナ部にも、

「今ワナ 涙ノ谷ナルヤナア 先ワナ 助カル道デ アルゾヤナァ」

(現世はつらく悲しいものだが、信仰により来世には救いの道があるのだ)

という一節があり、隠れキリシタンとして生きる現世での苦しみと、来世での救いを求める気持ちが歌われている。

そう考えると、マエロヤナ部についてる音楽のテンションの高さ、力強さは、救いを求める気持ちがいかに切なる物であるかを表していると解釈出来るのではないか。

ところで、「現世での苦しみ」「来世での救い」「救いの条件としての信仰」の3点セットは、

別の宗教、時代でもちょくちょく見かけられる。

たとえば、隠れキリシタンの時代の日本でポピュラーだった浄土真宗(当時といえば本願寺が無双してて、調子にのりすぎて信長にボコボコにされたもうちょい後ですよね)も、

信仰をこめた読経により御仏の力にすがり浄土への救いを求めるもの(だったと思う)し、

アメリカ大陸の黒人奴隷が歌った黒人霊歌にも、似たような内容のものがある。(soon ah will be doneとか)

「おらしょ」の根っこにある「苦しみ、信仰、救い」への思いが、普遍的とまでは言わないけど、

別の時代、国にも存在したことにも思いを馳せれば、おらしょの向こう側にちがった時空間が見えるんじゃないかと思う。

以上、私見のほうが長くなってしまった。ごめんなさい。